2016年




ーーー10/4−−−  職業能力適正試験


 先日来客があり、自分の身の上話をしていたら、技専門校の入試の話になった。相手が、どのような試験だったのかと聞くので、思い出せる範囲で答えたのだが、その中に今考えても興味深い出題が有った。

 筆記試験である。横長の紙に、数字が左から右へ一列に並んでいる。数字の現れ方は不規則。その数字の列が、用紙の上から下まで、一行ずつ空けて何十行もある。問題の内容は、隣り合う数字を足して、その結果の一の位を、数字の間の下の欄に記入するというもの。試験官が、決まった時間(30秒くらいだったか)経過するとチャイムを鳴らす。そうしたら、途中で止めて、次の行に移る。計算はなるべく速く、しかも正確に記すように言われた。

 始めてみると、一行を時間内に終える事は不可能だった。よほど計算が得意で、しかも動作が機敏な人ならどうか分からないが、普通の人ならせいぜい八割辺りでチャイムが鳴る。職業能力適正試験だから、計算結果を多く書けた方が評価が高いはずだと想像する。だから目一杯急いでやる。その一方、慌てて計算ミスをしたら、これまた評価がマイナスになると予想する。そのジレンマの中で、神経をすり減らすようにして計算をする。周囲の受験者の出来具合も気になる。おおいに焦るが、無常にもチャイムは鳴り、次の行に進まされる。

 後日、だいぶ経ってからだが、誰かからこの出題に関して種明かしを聞いた。つまりどのような意図で問題が作られていたかである。まず、普通の人なら、制限時間内に行の最後まで終える事は出来ない。そのように作ってある。そして、統計的に見て、誰でも最初は成績が良い(多くできる)が、次第に成績が悪くなり、後半になるとまた盛り返すのだという。つまり、計算結果の到達点は、左に凸のV字形になる。個々の計算がさほど遅くなく、誤りが許容範囲内で、結果がこのような傾向になれば、この試験は合格だとのこと。普通にやっていれば、合格なのである。では、何を見るための試験なのか。

 こういう実例があるそうである。結果を多く見せるために、計算せずにデタラメを書く。無理やり列の最後まで書く。あるいは、最初は正しくやっていても、途中でペースが落ちると偽装する、等々。

 この試験は、いわば正直さ、誠実さを見る試験なのである。計算能力、計算スピードを見るためのものではない。技術屋に求められる適性は、与えられた課題に対して、誠意を持って臨むこと。過剰なノルマを与えられても、誤魔化さずに、自分が正しく出来る範囲で行なうこと。出来ない事は出来ないと正直に認めること。つまり、状況に左右されること無く、内なる倫理観に従って行動する姿勢なのである。

 そんな話をしたら、来客は「あらかじめその出題意図を知っていたら、意味無いですね」と言った。そうかも知れない。しかし、受験者全員がその事を知っていたとしても、不合格者が出ないだけである。そしてその意図を知った時点で、一つの教育効果が与えられる。

 


ーーー10/11−−− 人生初のマツタケをゲット


 先月生まれた二人目の孫に会いに、婿殿のご両親が宇和島から来ることになった。我が家にお迎えして、夕食を共にする予定となり、家内がメニューを思案した。ご近所に住むマツタケ採りの名人が、このところかなりの収穫を得ているとの情報が入り、少し分けて貰って、マツタケの茶碗蒸しでも作ろうかと、虫のよいことを家内が思いついた。

 名人のお宅へ出向いて、話をした。この時期、地場産品の店に行けばマツタケを購入できるが、それでは話が面白くない。ご近所のマツタケ名人が、地元の山で採ってきたマツタケでおもてなしをしたい。相場の金額を払うから分けて貰えないかと頼んだ。そうしたら名人は、「俺が案内するから、採りに行きましょう。ご馳走とは、自分で走り回って手に入れたモノでもてなすことですよ」と言った。話は思いがけない展開となった。

 一日置いて来客の前日、朝2時に名人のお宅へ出かけた。車に便乗して、東山へ向かい、谷間深くへ入った。身支度を整え、行動を開始したのが4時前。まだ真っ暗である。ヘッドランプの灯りを頼りに、急斜面を登る。

 現場は、名人が今シーズンも何度か通った所だと言う。いわば勝手知ったるエリアのはずだが、必ず取れるとは限らないような事を口にする。自然相手の採集というのは、そういうものなのだ。探し始めて1時間経っても、一本も見付からない。「今日はダメかな・・・」という言葉が、自然な感じで発せられ、私は心細い気持ちになった。

 夜が明けかかった頃、ついに一本目が発見された。もちろん名人が見付けたのだが、その第一声は、さすがに弾んでいた。その後、続けざまに何本かゲットした。地面が割れて、頭が少しだけ見えているもの、完全に頭が露出しているものなど、現れ方は様々だ。名人が、ただの地面を指差して「この下にあるから掘ってみなさい」と言った。その通りにしてみたら、マツタケが現れた。これには驚いた。

 最後に私も一本見付けた。地面がこんもりと盛り上がり、その先が割れてマツタケの頭とおぼしきものが見えていたのだ。直ぐに名人を呼んだら、間違いないから掘ってみましょうと言った。掘るのは何回かやらせてもらっているから、手順は分かる。土を取り除き、茎を露出させる。マツタケは頭も茎も、しっかりとしていて固い。その茎に沿って指を差し込み、ユサユサと揺さぶると、根元がポロっと外れる。取り出してみたら、けっこう大きかった。名人は「おや、いい形のがとれたね」と褒めてくれた。我が人生で初めてのマツタケ収穫である。とても嬉しい気がした。

 その後も探し回ったが、もう見付からなかった。雨も降り始めたので、下山することにした。車へ戻りついたら10時半。およそ6時間半のマツタケ狩りは、無事に終了した。この「無事に」ということが重要である。マツタケ狩りは、急斜面の登り降りがつきもので、危険を伴う。崖から転がり落ちて大怪我をしたり、場合によっては命を失う事もある。私自身も、二年前にとても怖い経験をしたことがある(2014年9月の記事を参照)。

 来客を迎え、歓談しているときに、マツタケ狩りの顛末を話し、私が採った現物を披露した。お父様の話では、四国宇和島でもアカマツ林があり、マツタケが採れるという。子供の頃は、お婆様に連れられてマツタケ採りに行った事もあると。採ってきたマツタケを自宅で食べるのは、普通の事だったらしい。それが、時代が変わるにつれて採れなくなり、今では高値で手が届かないと。マツタケを食べたのは数十年ぶりだと喜んで下さった。




ーーー10/18−−− 珍妙なる旅客機の座席


 
たまたま知人と飛行機の話をしているうちに、旅客機の座席の配置に関する話題になった。その時、急に思い出した、珍妙な体験がある。

 会社員時代、イギリスへ出張したときのこと。たしかロンドンからマンチェスターへの航路だったと思うが、国内線に搭乗した。航空会社はBA(英国航空)だったと記憶している。ジャンボと比べると、ずっと小さい機体で、100人乗りくらいだったか。前方のタラップを上がって機内に入ると、ギョッとした。座席が後ろ向きなのである。ところがよく見ると、後ろ向きは前半分だけで、後ろ半分は前向きになっている。従って、中央の一列だけは、向かい合わせになっている。私の座席は、後ろ向きだった。離陸するときは、体が前に傾いて、何とも奇妙な感じがした。

 どのような理由でそんな配置になっていたのか、分からない。先日ネットで調べてみた。すると、旅客機の座席を後ろ向きに配置するというのは、ごく一部の例を除き、過去に採用された事は無いという記事が目に付いた。例外は、スチュワーデスの座席とのこと。客席の一部を後ろ向きにするというアイデアは、過去にいろいろ有ったが、いずれも実現されなかった。理由は、後ろ向きに座ると、乗り心地が悪いからという事だった。

 そんな記事を見たら、なんだか急に自分の記憶に不安を覚えた。私が経験した事は幻だったのか。しかし、ネットの記事を書いた人が、過去の全ての旅客機の座席を知っているわけではない可能性もあるだろう。30年くらい前の、イギリスの国内線で、ほんの一時期、こんな滑稽な事が行なわれていた事が、世界の航空機の歴史の中で記録されていなかったとしても、不思議ではない。

 それにしても、謎は残る・・・




ーーー10/25−−− 展示会のスタンス


 
伊那市にある「かんてんぱぱホール」で、陶芸、織物の工芸家たちと合同展を行なった。展示会というものは、多かれ少なかれ勉強になるものだが、今回もその例に漏れなかった。
 この会場は、伊那食品工業株式会社の社有施設で、地元の美術工芸家や市民サークルに発表の場を提供するという、いわゆる社会貢献事業の一環として設けられている。会場は十分に広く、設備も充実していて、しかも利用料金が安い。そのため利用希望者が多く、予約申し込み時には抽選になるとのこと。

 昨年12月の飯田市アートハウスでの展示会の折、陶芸家のH氏から誘われた。一昨年の3月に同じアートハウスで行なった私の展示会を見て、木工家を誘うならこの人にしようと思ったそうである。織物作家の女性二人を加えて、4人展を行なうことになった。

 陶芸家と合同で展示会を行なうのは初めてである。来客の合間に雑談を交わすうちに、あることに気が付いた。H氏の展示会に関わるスタンスが、私とは全く違うのである。それは、木工家具と陶器の違い、すなわちジャンルの違いから来るものだと理解された。

 木工家具の場合、展示会を行なって、初対面の人に椅子やテーブル、キャビネットなどを買ってもらうケースは、私の個人的経験から見れば稀なことである。従って展示会は、自分の作品や仕事を、世の人々に紹介する場として位置付けてきた。もちろん見知った方々が来て下さって、お買い上げ頂いたり、ご注文を頂くこともある。しかし大方の来場者は初対面であり、すぐにビジネスに繋がる可能性は低い。だから、「見て貰うだけで良しとする」という割り切りも必要だと考えてきた。

 ところがH氏は違っていた。売れない展示会は意味がないと、きっぱり言った。個々の品物の値段は1500円や2000円でも、売り上げを積み重ねて、一日に10万円程度を確保することが譲れない線だと。従って、会場に合わせて展示品も選ぶ。その会場で売れそうも無い物は持ってこないのである。傍から見ていると、展示会と言うより、販売会という感じである。作家本人が立ち会って説明をするのだから、単なる物販イベントとは一線を画する、格調の高さ、文化的雰囲気はある。しかし、売り上げへのこだわりは、やはり販売会と呼ぶのが相応しいように感じた。

 家具なら、自宅でじっとしていても、電話やメールで注文が舞い込み、数十万円の仕事になるケースもある。しかし、陶芸ではそういうことは無いと言う。お客がわざわざ工房まで訪ねて来ても、お買い上げはせいぜい数万円程度。自分で売り歩かなければ、生活を維持できないのである。これは陶芸に限らず、ガラス工芸や金属工芸など、いわゆる工芸作家の仕事に付いて回る宿命なのであろう。私は自分の仕事が簡単でお気軽だとは決して思わないが、他の工芸分野の、今まで気付かなかったシビアさを目の当たりにして、襟を正されるような気がした。

 従来のように、「見て貰うだけで良い展示会」という路線は、だんだん難しくなるような予感がする。見て貰う事を目的とするなら、なるべく多くの家具を展示したいと考える。今回も、軽トラ二台分の家具を運んだ。そういう大掛かりな取り組みは、歳を取るにつれてきつくなってくる。また、今後の稼業が、待ちの態勢だけやっていけるかどうかという不安もある。

 展示会のやり方を、変えていく時期に来たように思う。肉体的にも、費用的にも、無理が来ない程度に小規模にし、しかもある程度の売り上げが確保できる品揃え、お客が買いやすい価格帯の品揃えを考える必要がありそうだ。

 従来の路線に対する見直しを、痛烈に感じさせられた、今回の展示会であった。




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